【会報74号より】視点:今を考える2

「ごめんください」の精神を見つめ直す

關本 和弘

早いもので、私が僧侶を志して25年になりました。世間では定年も視野に入れたセカンドライフを考え始める年代なのでしょうが、45歳という年齢はお寺の世界では駆け出しからまぁまぁ中堅どころといったところです。

私のお寺は住職と私が奉職しておりますが、それほど大きなお寺ではありませんので必然的に私は平野区にあります本山のお手伝いに、行儀見習いを兼ねて行くことになりました。つまり本山にお手伝いに行き始めて25年になると言うことです。

駆け出しの頃、箸の上げ下げから歩き方に至るまで、厳しくご指導をいただいて参りました。ですがそれも過去のこと、いつの間にか立場が変わり僭越ながら今は若手を指導するようになりまし た。

そんなある日のこと、20代の後輩とお檀家さんにお参りに行きました。後輩のお仕事は私より先に行ってお仏壇周りを整えることです。つまり蝋燭に火をともし、お線香を立てるのです。

後輩くんはダッシュで100m先の玄関まで行き、元気よく「おはようございます!」と言いながら引き戸を開けます。遅れて私が玄関で家人様に「おはようございます」と言いながら上がらせていただく。本当に何気ない日常なのですが、その時そこに強烈な違和感がありました。あれ?この感じは何だ?今私は何を口走った?

その瞬間ふと考えました。

25年前、まだ私が行儀見習いだった頃、同じように師僧とお檀家さんにお参りに行った際、師僧は何と言ってただろうか?「おはようございます」? 「こんにちは」? 違う。そうだ。「ごめんください」だ。最近とんと聞かなくなったように思いますが皆様はいががでしょうか?

「ごめんください」「すいません」「ごめんやし」なぜ余所様のおうちにお伺いする第一声が謝る言葉なのでしょう。少し考えたらわかります。そのおうちにお邪魔するに当たり、家人様は用事をしておられるかもしれません。休息の時間かもしれません。その時間をお伺いした私が奪うのです。そのことに対する申し訳なさが第一声には込められているのです。

20年あまりの時間が過ぎ、その第一声は「おはようございます」「こんにちは」に変わりました。その言葉の中にはすでに相手のことに心を遣う意味は無くなってしまったのではないでしょうか。昨日と今日は同じように見える日常です。ですがその積み重ねを20年分積み重ねたら目に見えて違いがわかります。この20年で日本人は合理化や効率化の名の下に見えない物を軽んじ、見えるところだけを取り繕うようになって参りました。今こそ「ごめんください」の精神を見つめ直す時なのかも知れません。

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